こんにちは!ハクナマタタです。
よく「自分探し」と検索すると、「自分探しは無意味」と否定的な見解がでてきますよね。
ひろゆきさんの見解に共感する人も多いのではないでしょうか?
否定的な理由は沢山あると思いますが、その主な理由の一つとして
自分探しは現実逃避でしかないから無意味
という指摘が挙げられると思います。
確かに一理あると感じるはものの、私は自分探しは現実逃避と単純に考えることに違和感を覚えました。
今回はその違和感について皆さんに共有できればと思います。
この議論に正解不正解はなく、「はたして本当に自分探しは現実逃避と単純に考えていいのだろうか?」疑問に持つきっかけになれば幸いです!
自分探しは現実逃避の意味
私の違和感を共有する前に、自分探しは現実逃避という意味を確認しておきましょう。
ここの理解が違うと的外れな展開になってしまいます…
ここでは「自分探し 現実逃避」とヤフーで検索(2023年3月時点)してヒットした項目からポイントをまとめることとします。
- 今の自分は本当の自分ではない。どこか(別の世界に)本当の自分がいるはずだと考えるのは現実逃避である
- 今の自分は本当の自分ではないと考えるのは単なる今の自分を甘やかしている言い訳に過ぎない
- 自分探しの旅で本当の自分を見つけた人を見たことがない。それはただの現実逃避である
要するに…
何かに依存して本当の自分を探せると思うことはそもそも間違っている
となるのかなと考えられます。
そしてその「依存」している感覚に違和感を覚え、自己分析は現実逃避していると感じるのではないかと私は思います。
自分探しは現実逃避と単純に考えることのリスク
ここからは私の違和感を共有していきます。
それは…
確かに自分探しは現実逃避でしかないから実際に自分探しの旅に出ても無意味の可能性もあるが、
それが結果的に意味のある自分探しに繋がる場合もあり得るのではないか?
ということです。
ここではmoriyasu1123さんという方が書いたブログの記事「自発性と内発性」の内容を参考に違和感を詳しく説明していきます(社会学者宮台真司さんの自発性・内発性理論を一部解説している記事です)
moriyasu1123さんの記事を引用します。
(自発性と内発性について)
社会学者の宮台真司氏は、「自発性」は限定された枠内のルールや課題などが与えられた人為的環境のなかで主体的に動くことであり、「内発性」は人為的環境に左右されずに主体的に動くことを指す、すなわち、自発性は環境に依存しているが、内発性は環境から自立しているとして両語を区別する。そして、内発性は唐突に生まれるものではなく、自発性に基づいた活動の継続によって涵養されるものだというのである。
(子どもの遊びについて)
子どもたちに運動遊びを提供し、楽しそうに遊んでいる様子に満足している指導者が、終了後に子ども達から「(この後)遊んでもいい?」と質問されたというエピソードが紹介されている。遊びの本質について考えさせられるエピソードではあるが、「遊んでもいい?」という(自発的な)問いを原初的な内発性の現れと捉えれば、指導者の働きかけは奏功しているといえるのかもしれない。
子どもたちの運動(スポーツ)遊びに対する自発性を引き出し、それを内発性へと昇華させることが求められているともいえるのである。
自発性と内発性
「自分探しは現実逃避」という文脈から上記の解説を捉えていくと以下のようになります。
- 自分探しとは自発的であるため現実逃避といえる。本当は内発的な自分探しをしなければ自分探しの意味がない
- 一方で、宮台真司さんの定義を参考にすると、内発性は自発的行動の中から出てくるものらしい
- つまり、確かに自分探しは自発的行為かもしれないが、それが内発的な自分探しの行為に変わる可能性もある
- したがって、自分探しは現実逃避とは必ずしもいえないのである
要するに、最初は「海外行ったら本当に自分に出会えるでしょ〜」と気軽に渡航した場合現実逃避と捉えられ無意味な自分探しの旅になるかもしれないですが、
旅の途中で思わぬ出会いがあり意味のある自分探しに変わるかもしれないということです。
以上のことから私は自分探しは現実逃避と単純に考えることに違和感を覚えました。
自分探しをしたい人に「自分探しは現実逃避」と頭ごなしにいうのはその人の可能性を潰してしまうリスクがあると感じます。
まとめ – 生産的な議論へと発展していくために
ここまでのポイントをまとめます。
- 自分探しについて、「自分探しは現実逃避」という見方がある
- それは何かに依存して本当の自分を探せると思うことはそもそも間違っているという意味である
- ただし、自分探しは現実逃避と単純に考えることはリスクである
- 理由は、確かに自分探しは自発的行為かもしれないが、それが内発的な自分探しの行為に変わる可能性もあるからである
- したがって、自分探しは現実逃避とは必ずしもいえない
今回「自分探しは現実逃避」に批判的な立場から詳しく説明してきました。
ただ一つ欠けている視点があります。
それは…
理論のみで議論しており、実際に自分探しをした人の体験談をベースに議論していないということです。
自分探しが現実逃避になるかはその人次第だと思われます。
そのため、自分探しのをした人の体験談をベースに何が「現実逃避」で何が「現実逃避」ではないのか肯定派・否定派の立場から考えていくことが生産的な議論に繋がるのではないでしょうか?
「はたして本当に自分探しは現実逃避と単純に考えていいのだろうか?」疑問に持つきっかけになれば幸いです!
私は自分探しに意義を感じています。その根拠となる記事は以下となります
電車の例のようにインサイトを発見して、新しい自分に気づき、人生を充実させることは全ての自分探しの旅をしている人に共通した目的だと感じます。